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【アラベスク】  第15章 薄氷の鏡



第2節 似て非なる [1]




 扉を開けると、瑠駆真(るくま)は入り口で立ち止まった。
「一人?」
 美鶴(みつる)は無言で、顔も向けずに頷いてみせる。その無愛想な態度に苦笑し、駅舎に入って後ろ手で扉を閉めた。
(さとし)は?」
「知らない」
「あ、そ」
 勉強の邪魔にならぬようそっと鞄を置き、向かいに座る。
「寒いね」
「冬だからね」
 窓に背を向けて座る美鶴。つまり、瑠駆真は窓と向き合っている事になる。
「エアコンでもあればいいのに」
「駅舎には必要ないだろ?」
「でも、こんなに寒くて勉強(はかど)る? 手、冷たくない?」
 言って美鶴の左手を両手で包む。
「やめろっ」
 顔をあげて慌てて引っ込めようとするのを、強引に握り締めた。
 冷たい。
「冷たいじゃん」
「平気だ」
「コートだって着たまま」
「脱ぐ必要ない」
「そこまでしてこんなところで勉強する事ないだろう?」
 少し責めるような口調でゆっくりと手を離す。
「そんなに、この駅舎が好き?」
「誰にも邪魔されないからね」
 離された左手を引っ込め、再び教科書へ視線を落す。
「それに、霞流(かすばた)とも繋がってる」
 動いていた右手が止まった。その静止に、瑠駆真の視線が冷たくなる。
「考えるだけでイラつくね。あんな気障(きざ)男のどこがいいのさ」
「霞流さんを悪く言わないで」
「どうしてさ? 本当の事だろう?」
「キザなんかじゃない。それ以上言うなら出ていって」
 顔をあげ、睨みつけてくる。
 気に入らない。
 瑠駆真の瞳が細くなる。
 どうしてあんな男を好きになる? なぜ僕じゃないんだ?
 嫉妬で胸が焦がれる。
「出て行って」
「嫌だよ」
 即答。
「出て行かない。だってせっかく君と二人っきりになれたのにさ」
「いい加減に諦めてよ」
 うんざりと美鶴はため息をつく。机へ乗り出していた身を引き、顎も引いて上目遣いに睨む。
 可愛い。そうやって唇をへの字に曲げる表情も、可愛いよ。
 この姿、他の誰にも見せたくはない。
 ずっと想い続けてきた。いつかは必ず叶うはずと信じてきた。なのに彼女は、まったく別の男性を好きになってしまった。
「諦めきれるはず、ないだろう」
 喉の奥から唸るように言う。
「それは前にも言ったはずだ。そう簡単に諦めきれるはずはないってね」
「所詮は無駄よ」
「無駄かどうかは僕が決めるよ」
「バカね。アンタも聡も」
「あぁ、バカさ」
 再び手を伸ばす。
「なんとしても君を振り向かせる。その手始めとして」
 指先が触れ合う。
「まずは君の手を温めなきゃね」
「けっ 結構よ」
 大袈裟に引っ込める。
「瑠駆真のお手を煩わせる必要はございません」
「おやおや、ご遠慮なさらずに。手が(かじか)んでいては勉強もできないでしょう?」
「心配ご無用」
「心配だなぁ」
「やめてよ、ちょっと」
 しつこく伸ばされてくる手を払いながら美鶴は眉をしかめる。
「わ、私の心配より自分の心配をしたらどう?」
「え? 僕?」
 瞳がパチクリと瞬く。
 黒々とした、円らで宝石のような瞳。視線を避けるように美鶴は少し俯き、言い澱みながらもなんとか口を開いた。
「アンタ、病院へは、行ったの?」
「病院?」
小童谷(ひじや)の、さ」
 途端、瑠駆真の表情が凍りつく。無表情と言った方がいいのだろうか?
 その視線を受け、美鶴は歯切れ悪く続ける。
「まだ意識戻ってない、んだよね?」
「らしいね」
 素っ気無い答え。
「病院行った?」
「僕が? 何で?」
「だって、昔からの知り合いなんでしょう?」
「別に大した知り合いでもないよ」
「でも」
 そこで美鶴は口を噤む。
 瑠駆真を人殺しと罵った小童谷陽翔(はると)。美鶴は学校で盗み聞きしてしまった。
 瑠駆真は彼との関係を隠そうとしている。少なくとも、人に知られたくはないようだ。
 美鶴は部屋の隅へ視線を泳がせる。
「イブの日、だったよね」
「あぁ」
 美鶴と瑠駆真と聡。三人が信号待ちをする交差点で人身事故が起こった。被害者は小童谷陽翔だった。クリスマスイブの日の出来事だった。
 瑠駆真は窓の外を眺める。二月の木枯らしが砂塵を舞い上げる。
 乱れる髪を押さえながら、女性が足早に公園を去る。後を追うかのようにチラシがカサカサと地面を滑る。駅前で試供品と一緒に配られていたものだ。乾燥から髪を保護する成分が配合されているらしい。一回分のシャンプーの試供品だけが、みごとに引き千切られている。
 事故から一ヶ月と数日。小童谷陽翔は一命は取り留めた。だが意識が戻らず、病院で寝たきりとなっている。
「イブの夜に自殺だなんて、小童谷も洒落た事をする」
 東洋と西洋を織り交ぜた、甘くとも甘すぎない絶妙な美貌。その顔立ちにはおよそ似つかわしくない言葉に、美鶴はチラリと相手を見た。
「どうして、自殺したの?」
「知らない」
 木枯らしが窓を揺らす。カタカタと耳障り。
 しばらくの沈黙の後、瑠駆真はゆっくりと美鶴を見つめた。
「噂?」
 美鶴は答えなかった。瑠駆真を見返す、その視線が答えだ。
「デマだよ」
「そうは思えない」
「何を根拠にっ!」
 声を荒げる。瑠駆真にしては珍しい。
「何を根拠にそんな事を言うんだ?」
「アンタと小童谷は何度も言い争ってた。他の生徒も目撃してる。私だって裏庭で」
 そこで言葉を切る。
 裏庭で言い争う小童谷と瑠駆真。瑠駆真を人殺しと罵るその言葉に変な好奇心を抱いてしまったお陰で、美鶴は自宅謹慎などという状況へ追い込まれてしまった。
「美鶴、君は実のところ、どこまでを知っている?」
 問いかける瑠駆真の瞳は冷たい。まるで黒いガラス玉に見つめられているようで、美鶴は落ち着かない。
「何も知らないよ」
「嘘だろう」
「嘘じゃない」
「嘘をつくならもっとわからないようについてくれと、前にも言ったはずだ」
 カッと頬が火照る。
 初キスの相手は誰だと問い詰められ、聡かと聞かれて上手く嘘をつく事のできなかった美鶴。
「君は嘘がつけない。それは自分でもわかっているはずだ」
「嘘じゃないっ!」
 巧みに自分のペースを構築しようとする瑠駆真に、美鶴は激しく反論する。
「嘘なんかついてない。私は何も知らない。むしろ教えてもらいたいくらいだっ!」
 嘘じゃない。だって本当に何も知らないのだから。
「アンタ、小童谷とどういう関係?」
「本当に知らないとして、でも知る必要もないだろう?」
「そんな事はない。私には知る権利があるっ!」
 バンッ! と机を平手で叩く。
「お前達の諍いのせいで、こっちは迷惑してるんだ」
「迷惑?」
「そうだ。夜の公民館で」
 再び頬が紅潮する。もう思い出すのは恥かしい事ばかりで、なかなか会話を進める事ができない。
 瑠駆真は夜の公民館に呼び出され、美鶴は言葉巧みに連れてこられ、そこでワケもわからず小童谷にキスをされ、その後には瑠駆真に迫られ、しかもその写真を小童谷に携帯で取られて、それを見た聡は怒り狂って…
「さんざんだっ」
 吐き捨てる。
「私は何の関係も無い。なのに、なんであんな写真を」
 怒りや羞恥で震える美鶴の手にそっと触れた。だが、激しく払われた。
「触るなっ」
 自分を睨む瞳。瑠駆真はギュッと唇を噛み締める。







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